0か1か


先日、撮影でお邪魔した大山さんちで


「親が死んだあと、この家どうすんだって息子に聞いたら
『俺が住むよ、当たり前じゃん』って言うんですよね〜。
なんか嬉しいですよね。なんだお前、結構気に入ってるんだなって。」

っていう、とても嬉しいエピソードを伺いました。





きっと大山さんの息子さんは
もう高校生なので、あと数年で
進学やら就職やらで
とりあえず、一旦家を出ちゃうんじゃないかな。


それでも

どう進むか、どこへ行くかわからない
大山少年の、無限に広がる未来の可能性の中に
「実家を住み継ぐ」という選択肢が
ちょっとでもあるということが

作り手にとっては
なんとも嬉しい!



だけど
たとえ、戻ってこなくても
たとえ、他人のおうちになったとしても
たとえ、「住宅」という用途でなくなったとしても

建築が、誰かに愛され続けて
取り壊すことを、誰かに惜しまれる。



そんな建築が、増えるといいな。






さて、話は変わり、牛の身の上話になりますが。


実は、熊本にある私の実家は
数年ほど、空き家状態でした。

まだ、築20年ほど。
たまに近所の祖母や親族が、空気の入れ替えをしてくれたり
掃除をしてくれたり、庭の手入れをしてくれたり
空き家といっても、いつでも人が住み始められるくらい、現役の家でした。



でも言い換えれば、
まだまだ住めるのに、誰もいなくなった家。

帰省するたびに、住み継げなかった罪悪感で
きゅっと胸が痛むのでした。



そんな罪悪感から目を背けたい気持ちもあり
「管理も大変だろうし、取り壊すことも検討したら?」と
何度か親に話したこともあるのですが


そのたびに
父は頑なに「残す」と言い張ります。

「自分が生きている間は、なんといわれようと残す。
お父さんが死んだら、好きにしていい」と。




そっか、やっぱり、そういうもんだよなぁ。
家を残すか残さないかの判断って
お金とか、手間とかももちろんあるけど
最終的には、きっとそこじゃないんだろうなぁ。。。
気持ちの問題。

なーんて思っていた矢先に、今回の大地震。



影響は受けましたが
幸い、修繕すれば、まだ住める程度。

家族会議の結果
まぁ誰も住んでないし、急ぐことはないからのんびり直そう
ということになりました。




そんな実家ですが、地震後しばらくの間

家が壊れてしまった近所の人たちが
お風呂に入りにきたり、一時的に家財を置いたり、と
ちょっとした避難所のような場所になっており


地震から2ヶ月経って
家を失ったある家族に、家を貸すことが決まったそうです。







もちろん、困っている人の力に
なれていることの嬉しさと


同時に

家って、建てた家族が暮らす以外の
存在意義もあるんだな、という

少しホッとした気持ち。



そして、
きっと家も、喜んでいるだろうな。








そうか、自分が住むってこと以外にも
家を守れる方法は、あるんだなぁ。


近くにいなくても、きっと何か方法があって
それが、誰かの為にもなって。



残すか壊すか、0か1かの選択肢じゃなくても
いいんだな。





なーんて

大山家のエピソードを聞いて
我が身を振り返ってみたのでした。。。






おしまい。

うし。